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2013年9月23日 (月)

愛が悪いのはなぜか?

今日はお彼岸の中日。

ところで、仏教では「愛」という言葉を良い意味でも使いますが、悪い意味でも使います。

なぜ「愛」が悪いのでしょうか?

「渇愛」の意味があるからです。

私たちがいう愛とは、自分中心の感情や欲望であることが多いからです。

例えば、彼氏(彼女)を「愛している」。だから優しくする。しかし、仲がこじれたり、他の人を「愛した」ら、今までの彼氏(彼女)を嫌いになったり、憎んだり、無関心になったり、どうでもよくなったりするのです。

それから、自分が相手のことが何故好きなのか、その理由は、相手が自分にこういうことをしてくれるからです。逆に言えば、相手が自分のして欲しいことをしてくれるから「好き」なのです。

つまりは相手を「愛している」「好き」と思いながら、実は、それは自分可愛さから来ていることが多いのですね。
自分を中心にした損得勘定や、欲望、感情だったりします。

まるで、のどが渇いた人が水をがぶがぶと飲むように、欲しいときには無性に欲しがり、自分ののどの渇きが消えると途端に水に飽きて、あれほど飲みたかった水のことなんて忘れてしまいます。

水を求めるのは、自分ののどの渇きを潤すためであり、水そのものを「受け入れたい」のではありません。

結局は自分の「ため」でしかないことが多いのではないでしょうか。自分の「ため」に相手が欲しいと。

私たちはとかく何かをすぐに「欲しがり」ます。
その「欲しがり」を私たちは「愛」と呼んでいることが多いのではないですか?

自分の欲しいもの、無いものを「欲しがり」、手に入ると欲しかったことを忘れて「飽きる」。その後、また違うものを「欲しがる」、この繰り返しをしています。
欲望に限りがないとは、こういうことです。

好きで一緒になったはずの彼氏や彼女、奥さんやダンナさんなのに、何故飽きるのか?
どうもここにヒントがあるのではないでしょうか。

「恋している自分が好き」

自分が中心、自分が可愛い、だから、不満をもち、愚痴をこぼし、飽きるのではですか。
自分を中心にして相手も振り回してはいませんか?
ただ、中心にしている自分もフラフラと揺れているものです。

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