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2014年1月20日 (月)

幸福の科学を考える (仏陀再誕の検証2) 12

前回転載した幸福の科学出版の総合月刊誌『Liverty』(リバティ)の公式ホームページにあった記事を分割して検証したいと思います。以下、太字の部分は引用した箇所です。

反政府デモが大規模化するなど、政治的な混乱が続いているタイ。政治の動向が注目されるにつれて、エイズ患者の増加、麻薬の蔓延、同性愛の問題など、タイの社会問題もクローズアップされるようになっているが、これらの問題の根底には同国が奉じる上座部(小乗)仏教が大きく関係している。

上座部仏教とタイの政治的混乱や社会問題とがどのように関連するのか不明なままで、一方的な決め付けで論を進めようとしています(以下にその主張の理由が書かれていますので、そちらもお読み下さい)。また、「同性愛の問題」は「麻薬の蔓延」と平行するような問題なのでしょうか。幸福の科学では同性愛と麻薬の蔓延とを同列にみていることがわかります。

 タイをはじめ、スリランカ、ミャンマーなど、東南アジアの仏教徒たちは、自分たちは釈尊在世時から続く初期仏教の教えと戒律を厳格に守っていると考え、そのことを誇りにしている。特にタイでは、成人男性の多くが数カ月間の出家修行をする習慣がある。しかし、戒律重視はよいが、その考えが半ば「戒律さえ守ればよい」という免罪符になっていること、また禁欲させられた反動が生じることから、それが社会のモラルを引き下げているのではないかと指摘されている。

タイの社会のモラルを引き下げているのは「戒律さえ守ればよい」としているから、また「禁欲させられた反動」からと指摘されているとしていますが、誰がそのようなことを指摘し、その典拠はどこにあるのでしょうか。

 しかし、心の修行こそが釈尊の本意であり、戒律は自らを戒めて修行を完成させるための手段であったはずだ。形骸化した現在の上座部仏教は、釈尊の本来の考えからは離れているようだ。そのことを象徴的に示しているのが「仏陀は決して生まれ変わらない」という考え、「仏陀再誕」を否定する思想だ。まるで仏陀を忌み嫌い、敬遠するかのようなこの考え方は、仏教の解釈として本当に正しいのか。

「仏陀再誕」を否定する思想が過ちであるならば、当の釈尊は「仏陀再誕」を説いたのでしょうか。

「仏陀は再誕しない」は極めて不自然な思想

 上座部仏教では、悟りに到達して仏陀となった存在は転生輪廻から解脱し、もはやこの世界には生まれ変わってこないと解釈されている。最近、仏教活動家の佐藤哲朗氏はこの上座部仏教の教えに基づいた『日本「再仏教化」宣言!』という本の中で、「(仏陀は)輪廻の世界から『解脱』を果たした方です。ですので、絶対に『再誕』などしないのです」と述べ、大川隆法・幸福の科学グループ創始者兼総裁を「再誕の仏陀」として信仰する同教団を批判した。そこで、上座部仏教の最大のポイントの一つである「仏陀再誕否定論」を検証してみたい。

 上座部仏教は、成立が古いとされるパーリ語の原始仏典を聖典としている。そして、そのパーリ仏典をひもとくと、確かに、釈尊の教えの基本として、苦しみばかりの転生輪廻から逃れるべきことが説かれている。悟りを得て仏陀となり、迷いの転生輪廻の輪から解脱する(もうこの世には生まれてこない)ことこそが仏教の目的であり、八正道をはじめとする教えはそのための方法だというのである。

 すると、釈尊は悟りを得たのであるから、「仏陀となった釈尊が再びこの世に生まれ変わってくることはない」という解釈が成り立つ。パーリ仏典やそこからの翻訳を含む漢訳の阿含経典の中には、釈尊がもはや生まれ変わらないと自ら宣言している箇所もあるため、一見、この解釈は動かし難いように思える。過去にも多くの仏陀がいたという「過去七仏」や、未来に仏陀が出現するという「未来仏」の思想も、あくまで釈尊とは異なる存在という位置付けだ。

 確かに、「仏陀は迷いの輪廻を脱する」という教えは繰り返し説かれており、それが原始仏典の中心的な教義であることは間違いない。しかしその一方、そこには「仏陀となってしまえば、この世への転生が(たとえ仏陀自身が希望しようとも)不可能となる」とまでは書かれていない。

「「仏陀となってしまえば、この世への転生が(たとえ仏陀自身が希望しようとも)不可能となる」とまでは書かれていない。」とありますが、これは詭弁ではないですか。転生が不可能と経典に書かれていないから転生は可能だと言いたいのでしょうが、ならば、仏陀になっても転生するだの、仏陀も希望すれば転生するだのと経典に書かれていますか。仏陀の転生が可能か不可能かを論じ、そこから仏陀の転生が可能だと意図的に導きこうとしています。しかし、仏陀の転生の可能性(能力)を論じることが本当は問題の本質ではありません。

 原始仏典においても、釈尊は数多くの奇跡を起こし、常人を超えた威神力を示している。その釈尊が「仏陀となった」という理由で、他の衆生でもしている転生輪廻ができなくなるというのは極めて不自然な考え方ではないだろうか。素朴な宗教的感情からしても、やはり「仏陀となったならば、強制的な迷いの転生輪廻からは解放される。しかし、衆生救済のため、自らの意志によって再誕することはありえる」と解釈するのが筋だろう。

「他の衆生」が転生するのは、転生「できる」からではありません。つまり本人(他の衆生)の意思で転生したいから転生するのでも、転生する能力があるから転生するのでもありません。転生せざるを得なくて転生しているのです。それにしても、仏陀も転生する、その論拠もなく、ただ「救済のためには転生するくらいのことはあってもおかしくない」というのは、単なる個人的な思いとしては、仏陀が転生してくれたらという願望はあるにしろ、その一個人の思いをもって仏陀再誕の論拠にはならないのです。

 

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