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2014年1月29日 (水)

幸福の科学を考える(仏陀再誕の検証) 15

(※前回からの続きです。前回までの記事も合わせてお読み下さい。なお、太字は、幸福の科学出版の月間総合誌『Liverty』(リバティ)の公式ホームページからの転載です。)

「釈尊はどこか遠くへ去った」「釈尊は消滅した」という思想と、タイ仏教などが釈尊の真意から離れて形骸化し、モラル崩壊をもたらしている事実とは関係があるようにも思える。釈尊がすでに僧侶たちを見守っていないと考えるなら、2500年前の教えや戒律が形骸化するのは当然である。

 さらに率直に言えば、仏陀再誕を嫌がるのは、その敵である悪魔の勢力だろう。大川隆法総裁は法話『宗教と唯物論の相克』において「(仏陀が)悟ったら、もう二度と、絶対にこの世に還って来れないとなると、誰が得をするんですか」「『悪魔の世界には手を出さない』という約束になりますよね。これはおかしい」と指摘。また、法話『スリランカで考えたこと』では「小乗仏教では、『悟りを開いて、この世の束縛から解脱し、自由になったならば、もう二度と、この世に帰ってこない』とされていますが、これを、『この世に帰ってこれない』というように解釈すると、その考え方は、結果的に、悪霊や悪鬼、悪魔などの考え方と同じになってしまいます」と釘を刺している。

上記の(引用した)記事は大川氏を「再誕の仏陀」という前提としてのものに過ぎません。幸福の科学の会員でもなければ、これは単なる大川氏の思いとしか受け取れません。また、「悪魔の世界」などと言っていますが、仏教で説く「悪魔」とは何かさえ大川氏は踏まえていません。

 仏陀再誕を強く否定する人たちは、自分が悪魔と同じ心境になっていないか、一度点検する必要があるだろう。今回、『日本「再仏教化」宣言!』を書いた佐藤氏にしても、「『仏陀再誕』のない明るい世界」などという見出しを使っているほか、「仏陀は再誕しませんが、私たちは別にさびしくないんです」とも述べている。なぜ、「仏陀再誕」がないのが「明るい世界」なのか。佐藤氏の言う「明るい世界」とは、一体どういう世界なのか。「仏陀のいない、悪魔にとってのパラダイス」なのだろうか。佐藤氏のこうした記述からは非常に奇異な印象を受ける。やはり、仏教者として価値観が転倒していると言わざるをえない。

「仏陀再誕」しなければならない理由が仏教経典の中に見出せないのです。いや釈尊が説かれもしないことに期待して、あるいは、「我こそ仏陀の生まれ変わり」などと言ってはばからない人に惑わされることの、どこが仏教徒のあるべき姿でしょうか。

 再誕の仏陀として活動する大川隆法総裁は、1986年の立宗以来、2100回以上の説法を重ね、1400冊を超える書籍を発刊。世界100カ国以上に信者が広がり、急速に世界宗教への道を歩んでいる。幸福の科学で説かれる仏法真理は、かつての世界宗教の教えを踏まえつつも、それらを遥かに超えるスケールを持つものだ。キリスト教的な愛や仏教的な心の教えはもちろん、「宇宙の法」や「アルファの法」など、宇宙スケールでの創世記や空間論をも明らかにしつつある。

仏教でもないことまで説いていると言っても、それは幸福の科学は仏教ではないと告白しているようなものです。「キリスト教的な愛」を説く必要が仏教にはありません。仏教で説くところの慈悲も理解できないから、愛といったらキリスト教などと他宗教の言葉にすがるのです。そもそも仏教で説く慈悲とキリスト教で説く愛との相違点と共通点とがわからないのでしょう。それから、「かつての世界宗教の教えを踏まえつつも」とありますが、これは地球神・再誕の仏陀との設定の大川氏が「かつての世界宗教の教え」を学んだうえで話し、それに付け加えて新たなことも語っているということを告白しているのです。これは地球神・再誕の仏陀との設定だとしたら、自らを否定するものでしょう。

 大川総裁は、2011年、国民の多くが上座部仏教を信じるスリランカで説法を行った。数十社のマスコミが取材し、テレビ放送もされたこの説法の後、参加者の7割に当たる1万人近くの人がその場で幸福の科学に入会。その模様を取材したインド・ビハール州のアージ新聞は「スリランカでも仏陀再誕が認められた」と驚きをもって報じた。スリランカの人々は、数千年前の文献や伝統的な教えよりも、自らの心で直に受け止めた「仏陀再誕」の感触を信じたということだ。

大川氏が活躍しているから、あるいは、スリランカで講演(あえて「説法」とは書きません)をしたら、その場で1万人が会員になったから、それをもって大川氏が「再誕の仏陀」だという根拠にはならないのです。もし、その理屈が通用するならば、仏陀であることの証明は一般の人々によってなされることを意味してしまいます。違う言い方をすれば、一般の人々が「あの人は仏陀だ」と思ったら、それで「仏陀」であると認定されるのかということです。

 仏陀が再誕するなら、かつて自らが説いた教えに制約されることなく現代人のために新しい法を説くはずだ。ましてや、後世に編纂されたパーリ仏典や仏教教学などに制限されることもありえない。パーリ仏典を根拠に、仏陀再誕を否定することの無意味さに気づくべきだろう。

「仏陀が再誕するなら、かつて自らが説いた教えに制約されることなく現代人のために新しい法を説くはずだ。」とありますが、これは単なる「仏陀が再誕するなら」という仮定の話。ここで必要なのは、仏陀の再誕はあるのか否か。幸福の科学では、仏陀の再誕は「ある」とするのですから、それを論証すること。それなのに、その証明をしないままに仮定の話に論点をずらしています。もう一度言います。「仏陀が再誕するなら」ではなく、「仏陀が再誕するのか」を論じているはずが、最後には論証しないままに仮定の話をして、それをもって現存の仏教経典や仏教学を否定しても何の意味も価値もありません。つまりは「再誕の仏陀」などと言っても、こんな程度の論でしか返せないということで、つまりはいかに「自称」「かたり」の類の話しかが分かります。

この『Liverty』の記事を書いた人は、大川氏が「再誕の仏陀」だと自分では論証しようと試みたのでしょう。でも残念。記事を読んでみて、「再誕の仏陀」なるものが、これほど脆弱な論理、いや論理にもなっていない言葉でしか表現できないことがわかりました。一見、現存の仏教経典や浄土教学などを引用してみても、それは論証のためにもならず、仏教学を学んだ人からしたら及第点など付けられるレベルではありません。仏教の問題について論じているはずが、他宗教の例を持ち出して、それをもって自らの説が仏教的な見地からして正当だと証明しようなどあり得ない話です。たとえば、日本の裁判で「この犯罪はアメリカではこれくらいの刑罰になるから」と量刑を言い渡せるのか、です。

幸福の科学が説くのが仏教だと言わなければ私は何も言わないでしょう。しかし、仏教とするならば、批判に耐えうる根拠(論拠)をだして説明・反論するべきものです。仏教を標榜する以上は仏教学的な見地や知識、文献によって反論・説明すれば済むだけのことです。しかし、ただの思いの範疇を超さないものをもって、正しい仏教とは何かを説くのは無理があります。幸福の科学側の仮定の話にあえて乗って、仮に仏陀が再誕するとしても、その教えが2500年前に説かれた内容と異なることがあるでしょうか。確かに時代や環境の変化はあります。ですから、そこに使われる言葉に差異は当然あります。しかし、時代や環境に差異があるからと内容自体が変わる仏教では人々を混乱させるだけです。そして、自分たちの思いや教説にそぐわないもの(人)を「悪魔」の側に置くというのは、論理の正当性を証明する術も論拠もないことのあらわれではないでしょうか。大川氏自身、この月刊誌『リバティ』の記事を書いた方、あるいは会員の思考を停止させて、大川氏の教説だけを絶対化させる術にしかなっていません。

一方で、かつてのオウム真理教は教祖の絶対化・個人崇拝をすすめるために、仏教の教説を利用し、その解釈や訳まで自らに都合よく変え、あるいは都合の好いよう経典の一部分をつなぎ合わせました。それで、それに反する考え(人)を「悪魔」などと断罪して、「悪魔」と対峙するかたちで自らを正当化させ、教団はますます個人崇拝を強めていったのです。

オウム真理教は批判者に対して情報公開や対話を拒むようになり、ただの排除・攻撃をもって教団の「防衛」にはしっていきました。当時のオウム真理教側の資料を読むと、社会からオウム真理教への批判が高まると、左翼、アメリカ、フリーメーソンの策略・攻撃だとして、外部に敵を設定することで、ますます教団が暴走していきました。

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