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2014年2月24日 (月)

幸福の科学を考える 21(中村元博士への論難を検証 序章)

仏教学の世界的権威、故・中村元氏が「幸福の科学」を分析 衝撃の内容に驚愕必至

約2500年前にインドで仏教を説いた仏陀(釈尊)と、仏陀入滅後に仏弟子が編纂した仏典を、入滅から約2500年後に研究した仏教学者は、どちらが偉いのか。賢明な読者であれば聞かれるまでもない問いかもしれない。だが現代の仏教学の現状を見ると、この問いに対する回答が逆転しそうである。

 

この問いに対して、明快な答えが得られる書籍『仏教学から観た「幸福の科学」分析 ―東大名誉教授 中村元と仏教学者 渡辺照宏のパースペクティブ(視角)から―』(大川隆法著)が10日から、全国の書店で発売される。

 

これは、インド哲学、仏教研究の世界的権威で死後14年が経った中村氏と、真言宗の僧侶でもあり、30カ国語を操る語学の天才と言われた渡辺氏という2人の仏教学者の霊を、大川隆法・幸福の科学総裁があの世から呼び寄せ、その本音を語らせた霊言の内容を収録した書籍だ。

 

霊言が行われたのは、いずれも10月16日。中村氏の霊は登場して早々、生前に仏陀が説いた「霊的なもの」「神秘的なもの」の研究を深めなかった点について、「"迷信"から離れないと、『仏教学そのものの存続』が、学問として厳しい"あれ"だったんでね」と話した。

 

そればかりか、あろうことか、「『中村仏教学に対する信仰』は、『仏陀に対する信仰』とほとんど同じ」「『天国・地獄』なんて、君、それは方便だからさあ」と、仏陀と自分を同一視したり、あの世を否定するなど、仏教学者とは思えない発言を繰り返した。

 

これに対し、渡辺氏の霊は「中村君の間違いはねえ、もう徹底的に、超越的なものを信じようとしないところにある」「無神論・唯物論の流れは、仏教のなかにはっきりと流れている」「『あの世の世界』の解明をしないでねえ、宗教学や仏教学が成り立つわけがないんですよ」と、はっきりと「中村仏教学」の間違いを指摘した。

 

中村氏は生前、サンスクリット、パーリ語など優れた語学力で、東大名誉教授や文化勲章を受章するなどして「百年に一人の大天才」と評された人物。実は、弊誌1999年末にも、中村氏があの世からメッセージを送ってきており、再誕の仏陀である大川総裁について「お釈迦様が現代日本に転生しているなんて知らなかった」と話していた(弊誌2000年1月号「あの世からのメッセージ公開 仏教学の世界的権威 中村元氏の功罪」に詳述)。

 

現代の宗教学者や哲学者たちが、仏陀やキリスト、ソクラテスなどの聖人たちよりも高次な価値観を人類に提示しているわけではない。この事実は誰もが認めるところだろう。であるならば、私たちは「現代における神仏の声」がどこから発せられているかということに対して、謙虚であるべきではないか。

(以上、『Liverty』公式ホームページより転載)

『Liverty』は幸福の科学出版株式会社発行の月刊総合誌。総合誌の体裁をとっているが、幸福の科学(大川隆法氏)の考え・意向に沿っての編集になっている。

その『Liverty』でインド哲学者・仏教哲学者として名高い故・中村元先生の名をかたり、その霊の言葉(霊言)と称して、大川氏が語っている。

そのうち、ブックオフにでも安売りのコーナーで、この本を見つけたら買って、それをもとにこのブログで紹介したいと思う。

それでも少し立ち読みをしてみたが、仏教学者であり真言宗僧侶の渡辺照宏先生(渡辺先生の著書で入手しやすいのでは、例えば、岩波新書の『仏教』『日本の仏教』があります。)の霊言なるものも掲載しており、渡辺先生に故・中村先生の現在居るところを尋ねると、中村先生は「無意識界」(『仏教学から観た「幸福の科学」分析 ―東大名誉教授 中村元と仏教学者 渡辺照宏のパースペクティブ(視角)から―』(大川隆法著)にある言葉のママ)なる世界に「堕ちた」としている。渡辺先生の言葉にして、中村先生を貶めているのだ。また、渡辺先生に中村先生の欠陥を尋ねて、信仰が無い上での仏教学だと貶めている。

つまりは、渡辺先生が中村先生を批判し、故人となった現在では「堕ちた」とまで言ったことにしている。大川氏自身の言葉として語らずに、故人の渡辺先生の言葉として、故人の中村先生を非難するという形をとっている。誰かに言い返されたら、「自分の考えではなく渡辺先生の霊の言葉だ」と言い逃れる魂胆だ。

そして、信仰がない仏教学はおかしいとする渡辺先生の霊言?、これ自体が渡辺先生の言葉でない証拠である。

なぜならば、仏教学は信仰をもとにする学問ではないからだ。これは仏教学を習い始める時に教授から釘を刺されることだ。仏教学は学問であって、信仰をもとにするものとは違う。信仰という眼で仏教を見てはならないのだ。そこに偏見が生じて、学問的な考察や批判から逃避・回避してしまうからだ。あえて言えば、宗学という各自の宗派の教理や思想、宗祖の言動を研究するものがある。これは信仰が基礎にないと成り立たない。

その宗学と仏教学、あるいは、仏教への信仰と仏教学との差異を渡辺先生が知らないはずもない。むしろ、仏教学は冷徹な視点や批判をもって、仏教を研究対象としなくてはならないのだ。だからこそ中村先生の功績は高く評価される。

大川氏らは、そこが全く解っていない。自分が解らないのに、渡辺先生の名を騙って、中村先生を非難している。

それは中村氏が仏教を個人的には信奉しながらも、仏教を学問的に考察する姿勢を貫いた。信仰と学究との間にあるべき差異をわきまえていた。

さて、大川氏が中村先生を貶める理由。それは、大川氏の言葉(幸福の科学の教え)が仏教とは到底呼べるようなものでないことが仏教学的にも明らかであるからだ。仏教学を少しでもかじれば、幸福の科学の教えなどはとても仏教の範疇に入るものでないことが、幸福の科学の決定的な欠陥であることが知れる。

ここに大川氏が執拗なまでに中村先生を貶める理由があるのだろう。

そもそも仏教をかたりながら、その論拠を問われると、「現代の経典」とする大川氏の著書を持ち出す。大川氏が「現成の仏陀」「再誕の仏陀」という設定なので、その大川氏の言葉・著書を「現在進行形の教え」「現代の経典」などとするのだ。とても仏教学的な論証にたえ得るものではない。

おそらく仏教学者や宗教学者で幸福の科学を高く評価する人はいないだろう(少なくても私は知らない)。

せいぜい幸福の科学の動向を新宗教の運動の事例としての研究はできるかもしれないが。

それほどに脆弱な「大川教」を仏教と標榜することに無理がある。ところが、新宗教に詳しい人は知っているが、その「大川教」なるものも、実はGLAなどから寄せ集めてつくった教えに過ぎない。いわばパッチワークだ。

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コメント

幸福の科学は、仏教の内容を超えたものを説こうとしているのではないですか。
中村氏は、仏教を学問としてではなく、哲学としてとらえた点が問題なはずです。
それゆえに無味乾燥な内容になっていると中村氏の著作を読んで思いました。

管理人です。コメントありがとうございます。

コメント主様のコメントを拝して、私なりの感想を申し上げます。

1.「幸福の科学は、仏教の内容を超えたものを説こうとしているのではないですか?」とございます。
ただ、幸福の科学の初期の発言・著作はそれほど仏教色は無かったです。やはりGLAの影響が大きいです。後に、仏教用語を多用するようになり、幸福の科学は仏教教団を自称するようになりました。
私は、幸福の科学は仏教を超えたものを説こうとしているというよりは、いろいろな宗教や著作からピックアップして、つなげていると考えます。仏教を「超えた」というよりは、仏教の要素も混ぜ込んでいても「違う」ものと考えています。
この問題は、拙ブログでも何度か取り上げていますので、カテゴリー「幸福の科学」からお読みいただけたら幸いです。

2.「中村氏は、仏教を学問としてではなく、哲学としてとらえた点が問題なはずです。」とありますが、私が分からないのは、「学問としてではなく、哲学としてとらえた」という部分です。哲学も学問の一つではないかと私は思うのですが、いかがでしょうか?
仏教を宗教として捉えることもできます。しかし、「インド哲学」「インド思想」「仏教思想」というように、哲学として仏教を捉えることもできます。
もしかしたら、仏教を信仰する人からすると、仏教は単に哲学ではない、という思いもあるでしょう。
ただ、中村元氏は努力は相当したにしても、やはり天才肌で、さまざまな言語に精通し、単に仏教にとどまらずに、幅広く宗教、哲学、思想を研究された方です。それは『仏教語大辞典』や『仏教辞典』などを観ても思うことです。
おそらく学者として学問として冷徹に仏教を捉えたのだと思います。

その結果、コメント主様のように「無味乾燥な内容」と感じられることもあるのかと思うのです。

コメント主様が幸福の科学の信者かどうかは別にして、私がこの記事「幸福の科学を考える 21(中村元博士への論難を検証 序章)」で問題にしたかったのか、幸福の科学総裁・大川隆法氏が自身にとって、中村氏の思想・著作が不都合であったり、嫌いであったり、違う考えであったりしたからといって、渡辺照宏氏の霊言と称するなどして、中村氏を地獄に堕ちただの、中村氏の考えは間違いだのと言って、それを出版にまでしていることです。

大川氏はじめ幸福の科学は、「霊言」なるものは宗教行為だ、それを批判するのは宗教への冒瀆だと言われます。

一方で、故人のことを地獄に堕ちたなどと言うことは、それは故人への冒瀆にはならないのでしょうか。そして、地獄に堕ちたなどと言われた遺族はじめ親族の方の心情はどうなるのでしょうか。

もし中村氏の著作・思想に反論があれば、渡辺氏の「霊言」なるものでなく、大川氏本人の言葉としてなすべきものではありませんか。
中村氏の学者としての著作の内容に対しては学問的な見地から批判するのが妥当でしょう。地獄に堕ちたなどの「攻撃」は単なる故人らへの誹謗中傷・冒瀆にしか過ぎないと考えます。

大川氏も幸福の科学学園の創立者という立場があるならば、そこは教育的・学問的に論じるという姿勢が必要でしょう。

大川氏ら幸福の科学は「霊言」なるものは正当な宗教行為と言っていますが、そういう「霊言」なるもので、誹謗中傷・冒瀆に過ぎない結果を招いていることが、幸福の科学大学の開学の不認可(不可)の遠因になったと思います。

コメント主様からいただいたコメントから外れた内容もあったと思いますが、お許しください。
コメントをくださりありがとうございました。

なお、いただいたコメントと、私のコメントを記事にさせてください。

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