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2014年10月27日 (月)

大川隆法著『人間学の根本問題』を少しいじる その2

大川隆法著『人間学の根本問題』に、幸福の科学の初期に、大川隆法氏が仏陀や救世主である証拠はあるのかと問われたとき、大川氏は次のように返答したとあります。

そのようなとき、私は、内村鑑三が言っていた言葉も使って返答をしていました。
「そうした救世主というのは、『われは、それなり』と、自分で言うものなのです。過去を見ても全部そうなのです。『自分が、それである』ということをみんな言っています。あとは、それを周りが認めるかどうかなのです。先に、他人様が認め、指名してなるようなものではなくて、『われは、それなり』と、みんな、自分で悟って言っています。そうした人が救世主なのです。

(116〜117ページ)

仏陀や救世主であると自分で名乗るのが、その証拠、証明だというのです。

そこには、仏陀であるならば、とか、救世主であるならば、このような様相になるとか能力があるとか、このような修行過程を経たとか、といった証明はないのです。

まして、仏陀であることを証明するのに、キリスト者の内村鑑三の言葉を持ち出すくらいですから、仏陀であると言っても、原始仏典や大乗仏典のどこにも、その根拠を見出すことさえ出来なかったということです。

仏陀について語るのに、キリスト者の言葉、それもたった一言だけを抜き取り、それを根拠にしようなどあり得ません。

すると、仏陀といっても幸福の科学での仏陀は仏教の範疇にとどまるものではないと、幸福の科学の会員の方から反論があるかも知れません。

それならば、大川氏の存在が救世主だの仏陀だのとするのであれば、内村鑑三という一個人のただの一言にすがるのではなく、他に救世主や仏陀らしい、自らの存在の証明方法があるのではないか、と思うのです。

そして、そもそも大川氏が持ち出す内村鑑三の「われは、それなり」という言葉は、大川氏が、大川氏が仏陀や救世主である証明を問われた際の返答に使っている意味なのでしょうか?内村鑑三の遣った言葉の意図と、大川氏が持ち出す言葉の意図とは違いませんか?

でも、大川氏が内村鑑三の言葉とした「われは、それなり」。本当は新約聖書のヨハネ伝4:26にあるイエスの言葉なのです。

参考までに、下記に大正期発行の新約聖書のヨハネ伝の一部を転載しておきます。

4:22汝らは知らぬ者を拜し、我らは知る者を拜す、救はユダヤ人より出づればなり。 4:23されど眞の禮拜者の、靈と眞とをもて父を拜する時きたらん、今すでに來れり。父はかくのごとく拜する者を求めたまふ。 4:24神は靈なれば、拜する者も靈と眞とをもて拜すべきなり』 4:25女いふ『我はキリストと稱ふるメシヤの來ることを知る、彼きたらば諸般のことを我らに告げん』 4:26イエス言ひ給ふ『なんぢと語る我はそれなり』

(以上、転載了)

想像するに、新約聖書にあるイエスの言葉とされる一句を内村鑑三が用いたのを、大川氏はそれを内村鑑三の言葉だと誤解したのでしょう。

新約聖書の一句を根拠にして、大川氏が仏陀であることを証明できるはずがありません。仏教の問題の論拠が新約聖書などのはずがないのです。

それでも、仏陀は仏教の範疇を超えた存在だのと幸福の科学は説明するのかも知れません。

それならば、例えば、日本で行われる裁判で中国やイギリスの法律を用いて、弁護や追及、判決などあるのか、それと同じことをしているのです。

何でも根拠として出せばよいものではありません。

結局は、幸福の科学とはいろいろな宗教などから、自分に都合のよい部分を継ぎ接ぎしていると言えるでしょう。

世の中、大川氏の他にも、自分を神だと名乗っている人もいます。

そのような人と大川氏とはどこが違うのでしょうか。

仏陀だの救世主だのを名乗る大川氏の言葉を真に受けた人たちが集まった。それが幸福の科学だと、大川氏は幸福の科学の本質を、この本で見事言い当てています。

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