今年の幸福の科学の動向 その5
大川隆法氏の故郷・徳島県川島に「生誕館」なる記念館を建設中。
そこに7m77cmの高さのエル・カンターレ像を置くという。
「7」は幸福の科学では聖なる数としている。
理由は、大川氏の誕生日が「7月7日」(これは戸籍上の誕生日で、実際はそれ以前の誕生日だという母親・中山君子氏の証言もあるというが)で、それも「午前7時」に誕生したという一種の「伝説」が幸福の科学では「定説」になっている。
そこで「7m77cm」ということになるのだろう。
ここまではこのブログの記事「今年の幸福の科学 その2」で取り上げた。
この話を聞いて思うのは、幸福の科学では他者を非難するとき、よくその相手の考えや言動を「左翼」「唯物的」などと決め付ける。
あるいは「この世的」という言葉も用いる。
即物的な発想だと批判したいのだろう。
ただ、そこには思考・判断という作業を飛ばして、ただ幸福の科学の意向に沿わないものを同じ言葉で罵るだけのパターン化している。
そこで問いたいのは、それならば、建物の大きさを競ったり、像の大きさをより大きくしたりとかは、幸福の科学でいう「唯物的」とか「この世的」な発想にはならないのだろうか。
「7m77cm」だって、メートル法にこだわる理由があるのか?「7」を幸福の科学では聖なる数にしているのと同じように、「メートル法」も幸福の科学では聖なる単位なのか?
メートル法にこだわる理由がなければ「7尺7寸7分」だっていいはずだ。
意地悪く言えば、大川隆法氏の誕生日を7月7日午前7時としているから「7」を聖なる数にして、その数にこだわるが、その数にこだわることも「この世的」ではないのか?
まるで平成7年7月7日の日に「7・7・7」と印字がされたキップや押印を求めるような「趣味」とどこが違うのだろうか?
パチンコやスロットでは「7・7・7」(スリーセブン)はいいけれども、いくら教祖・大川氏の誕生日が「7」並びとしても、それだけで「7」にこだわるほどの価値が数字の「7」にあるのか。
考えれば、ほかの寺院で、高さなどで同じ数が並ぶようにつくられた仏像はあるのだろうか?
幸福の科学は仏教を自称しているので、一から十まで一つずつ言葉を挙げてみる。
「一」仏乗、「二」尊四士、「三」法印、「四」法印、「五」大明王、「六」波羅蜜、「七」高僧、「八」正道、「九」品往生、「十」大弟子
一から十まで仏教にかかわる言葉を一つだけ、いろいろな仏教宗派から取り上げてみた。
「七」にこだわる理由は大川氏の誕生日以外にあるのだろうか?
幸福の科学以外の宗教(教団)で教祖の誕生日の数字に教団こぞってこだわっているところがあるのだろうか?
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