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2015年5月25日 (月)

大川隆法氏が救世主や再誕の仏陀である根拠はあるのか? その5

(※前回からの続きです。前回までの記事も合わせてお読み下さい。なお、太字は、幸福の科学出版の月間総合誌『Liverty』(リバティ)の公式ホームページからの転載です。太字でない部分は私の考えや疑問です)

今回の記事は以前このブログで書いた以下の記事(アドレス)をもとにしました。よろしければ、こちらもお読みください)

http://pundarika7.cocolog-nifty.com/blog/2014/01/15-32bd.html

さて、前回の続きです。

パーリ仏典は仏陀の直説そのままではない

 しかし、それならば、パーリ仏典が仏陀再誕を否定しているという事実はどう考えるべきだろうか。例えば『希有未曾経』には釈尊の言葉として「これは最後の生まれである、もはや二度と生存はない」という記述がある。

 これについては、パーリ仏典自体の信頼性の問題がある。パーリ仏典は最も古い経典だとして上座部仏教では特に尊重されている。彼らの伝承によれば、パーリ仏典こそ、紀元前500年頃だとされる釈尊の入滅直後、主だった弟子たちによって行われた第一回仏典結集(教えが散逸しないよう内容を皆で確認し合うこと)の内容そのものだとされているが、それは正しくない。

 実際には、パーリ仏典は釈尊の入滅から数百年も経った「部派仏教」の時代に、「分別説部」と呼ばれる一部派が編纂したものにすぎない。その中には、釈尊に遡る古い内容も保存されているのは確かだが、正確さや網羅性からみて金科玉条のごとく扱うほどのものではない。現在はほとんど失われているが、他の部派もまた他の言語で著した別系統の経典を持っていたことが分かっている。

 この「部派仏教」の時代には、難解で哲学的な仏教理論(アビダルマ)が流行っていた。例えば、「説一切有部」という部派は、釈尊の説いた「無我」を「無霊魂」として強引に解釈した。部派仏教のこうした合理主義的な思想が、釈尊の教えの記録であるはずの経典の内容に混入したとしても不思議ではない。

 この時代は、保守的な人々がアビダルマに熱中する一方、民衆やそれに近い僧侶の間で釈尊の神聖化が進み、仏陀信仰が盛り上がった時期でもある。これが後の大乗運動につながったが、こうした動きを牽制するため、保守的な人々が「仏陀は再誕せず」を強調した可能性も十分考えられる。

 仏陀再誕を否定するようなパーリ仏典の記述も、後世の創作であるか、創作ではないにせよ釈尊本来の意図からはニュアンスを曲げて記述されていると考えるべきだろう。パーリ仏典も後世に作成されたという点では、大乗仏教の諸経典と同じであり、その意味での限界は認める必要がある。

確かに、釈尊の在世中は釈尊の言説を文字で記録してはいなかったです。釈尊が入滅された後で、人々が集まり結集(編纂)が行なわれました。仏教学的にはこれは常識ですが、現存の仏教経典は釈尊の直接の言葉でないから、現存の仏教経典の記述は信用できないとするならば、仏教を標榜する幸福の科学は何を仏教経典と認めるのでしょうか。

大川氏の著書を仏教経典にしているようですが、これこそ仏教とは違う「大川教」の経典ではないですか。大川氏の著書が仏教経典だと言える根拠を示してもらいたいものです。

宗教によく見られる「聖者の再誕」という思想 『般若経』『華厳経』『法華経』『阿弥陀経』など大乗仏教系の経典は、釈尊入滅後500年を経た紀元前後に編纂・製作が始まったとされており、確かに釈尊の直説でないものをかなり含んでいる。しかし、だからと言って一概に否定することもできない。当然、その思想の中には釈尊在世時の教えに由来するものもある。

 大乗的な大衆伝道はすでに釈尊在世時からあり、経典化(文字化)されるまでに時間はかかったが、彼らは仏典結集をしたグループとは別に釈尊の教えを伝承していたのであり、それが大乗仏教の「毘盧遮那仏」「久遠実成の仏陀」など、永遠の昔から宇宙を統べていた偉大なる仏陀という見方につながった。彼らは仏陀の本質を感じ取り、その真実の姿の一端を伝えているのだ。彼らの説く通りなら、釈尊は最初から仏陀として地上に降臨していたことになる。

 仏教に限らず、世界の宗教には、「聖者の再誕」という思想がしばしば見られる。キリスト教では一般的に転生輪廻を認めないが、『聖書』では、イエス・キリストが世の終わりに地上に再臨することが記されている。また、イエスが洗礼者ヨハネについて、彼が預言者エリヤの再来であると述べたという記述もある。

 大乗仏教の一つである浄土教にも似た考え方がある。中国の曇鸞から日本の親鸞にいたる浄土教の教えの中には「浄土の世界に往生した人が、阿弥陀仏から大衆救済の力を与えられ、再びこの世に戻ってくる」(還相回向)という考え方がある。仏陀そのものではないが、救済力を持つ存在が地上に再び生まれるというのだ。このように、「聖なる存在が再び生まれ変わる」という思想は宗教的にはポピュラーなものだ。

 もし仏教に、「出家修行者のお手本」という程度の仏陀観、「解脱して消息不明になる」という仏陀観しかなかったとしたら、仏教が世界中のあらゆる社会階層に浸透することはなかっただろう。やはり、大乗仏教が説くような「大宇宙を統べる理法としての仏陀」「人々を救う救済仏」という思想を打ち出したからこそ、キリスト教やイスラム教の「創造神」「造物主」に対抗しうるものとなり、仏教は世界宗教となったのだ。

 いずれにせよ、パーリ仏典のみを仏陀の真説とし、それに基づいて「仏陀再誕否定論」を説くのはそもそもピント外れである。

確かに、大乗仏教経典の代表格といわれる法華経に説かれる「久遠実成」説とキリスト教で説かれる再臨とは、宗教は違っても、その思想が形成される上での関連性があるのではないかという研究(考察)もあります。

しかし、だからといって、大乗仏教経典における記述や、まして仏教とは異なるキリスト教で説くイエスの再臨をもって、大川氏を「再誕の仏陀」だとする根拠にはなりません。

また、この『Liverty』の記事では「宇宙を統べていた偉大な仏陀」とありますが、仏陀はキリスト教などが「神」と崇めるような存在とは違います。

そして、この『Liverty』の記事では浄土教の還相回向の例を持ち出していますが、それとて、記事では「中国の曇鸞から日本の親鸞にいたる浄土教の教えの中には「浄土の世界に往生した人が、阿弥陀仏から大衆救済の力を与えられ、再びこの世に戻ってくる」(還相回向)という考え方がある。仏陀そのものではないが、救済力を持つ存在が地上に再び生まれるというのだ」と書いています。「仏陀そのものではない」例として記事でも認めていますように、仏陀が再誕するという根拠や例にはなっていません。ただ「救済力を持つ存在が地上に再び生まれるというのだ」と論じても、それが「仏陀」とはならないのです。この記事からは、救済力を持つ存在が再び地上に生まれるが、その存在は仏陀ではない、としか読めません。仏陀について論じているのに、仏陀でない存在の例しか出せないのです。

やはり「仏陀の再誕」を思想的・文献的に論証する根拠には成りえていません。大川氏が「再誕の仏陀」なのか、そこの説明は全くできないのではないですか。

次に、仏教が世界宗教になったのは、キリスト教やイスラームの説く「創造主」に対抗するような存在をだしたからではないでしょう。

そもそも仏教での「仏」は、キリスト教やイスラームで神と崇める「創造主」ではありません。ここからして、幸福の科学の仏教観は仏教とはかけ離れているのです。

つまりは、現存する仏教経典や、仏教学から穿り出そうにも「再誕の仏陀」などは見出せないのです。

(つづく)

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