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2015年5月19日 (火)

大川隆法氏が救世主や再誕の仏陀である根拠はあるのか? その2

このシリーズの2回目になります。

今回は、大川隆法氏の過去世が釈尊であったこともあるという「設定」で「再誕の仏陀」などと教団では喧伝しています。

それでは大川氏が本当に過去に釈尊であったといえるのか、そこを大川氏の著書から探ってみたいと思います。

幸福の科学総裁の大川隆法氏について、ウィキペディアで「大川隆法」を検索すると、「自称」の項目で、次のようにあります(以下、転載)。

幸福の科学の教義によれば、エル・カンターレとは地球における至高神であり、天上界より出たあらゆる宗教・思想・哲学の根源にあり、地上にあっては仏陀救世主の使命を併せ持った存在である。教団では、釈迦は大川の分身の一人であるとされている。ゆえに教団草創期には「再誕の仏陀(釈迦の生まれ変わり)」と称することも多かったが、大川は、大川自身がエル・カンターレの中核意識(本体)であり、自分が釈迦であった時代と比べて5倍の力を持っていると主張している。

(以上、転載了)

ということで、「再誕の仏陀」を称するならば、当然、2500年ほど前の釈尊の身に起きたことは自分自身に起きたこととして記憶にあるはずです。

まして、「自分が釈迦であった時代と比べて5倍の力を持っていると主張している」ならば、2500年前の記憶が無いとするようでは、その主張するところの意味もなくなるでしょう。

ところが、大川隆法氏著『人間学の根本問題』(幸福の科学出版、幸福の科学大学シリーズ)に目を通すと、大川氏自らが過去に釈尊であったとしているのに、その釈尊についての記述なのに「と思います」などの文体が多く並びます。まして、「分かりません」といった文言さえあります。

一方で、同じこの本で「過去世リーディング」なるものについての記述があります。これまでも、実際、大川氏は幸福の科学の職員の「過去世リーディング」なるものをして、自分の前に座らせた職員の過去世について語っています。

それなのに、大川氏は自らの過去世が釈尊だと自称しておきながら、本で読んだり、人から聞いたりして当時の釈尊について想像するといった記述です。これでは私たちが本で読んだり、聞いたりした話から当時の釈尊の様子を想像するのと同じです。

つまりは他人事です。過去の自分に起きたことという鮮明さがまるでありません。

繰り返しますが、大川氏の過去世が釈尊であったならば、当然、その本人として釈尊について語れる、語るはずであるのに、私たちが釈尊について見聞きしたり調べたりしたことを披露し、想像する、そのレベルと同じです。

そうした記述が多いのですが、ここでは2つだけ挙げます。たとえば、

釈尊が木陰で瞑想をしているとき、時間が経っても釈尊のいる場所は木陰のままだったという話のくだりで、

陰まで動かさずに止めるとは、たいへんな神通力ですが、どこまで信じてよいのか分かりません。「それほどまでに、天上界も釈尊を見守っていた」ということが言いたかったのでしょう。

(『人間学の根本問題』77ページ)

次に、釈尊の母親マーヤー夫人の故郷についての記述。

マヤ夫人のお里は、そのネパール領を越えて、今のインド領に入ったところだと思われるのです。

(『人間学の根本問題』78ページ)

以上の2箇所だけ引用しましたが、自分(釈尊)の母親の故郷がどこかも知らないで、「思われるのです」と想像でものを言っています。

自分(釈尊)の修行のときの様子について、これが実際に起きた事実なのか、それとも後世につくられた伝説なのかさえも分かっていません。この著書では「分かりません」とはっきりと書いています。自分の修行体験、起きた事実さえ、それが本当に起きたかさえも分からない。釈尊の神通力がどれほどのものであったのか、それも分からないと記述しています。

となると、教団では、釈迦は大川の分身の一人であるとされている。ゆえに教団草創期には「再誕の仏陀(釈迦の生まれ変わり)」と称することも多かったが、大川は、大川自身がエル・カンターレの中核意識(本体)であり、自分が釈迦であった時代と比べて5倍の力を持っていると主張していることの根拠など全くなく、そこには大川氏自身の体験さえも根拠にできないということである。

釈尊の神通力がどれほどのものかも分からずに、「釈迦であった時代と比べて5倍の力を持っていると主張している」とはおかしいです。なぜならば、釈尊の力の大きさも分からずに、大川氏が釈尊の5倍の力を持っているというのは有り得ないからです。数量的にいえば、その基準となる釈尊の力の大きさが分かっていないからです。

ほかの大川氏の著書では、あたかも自分が過去世で釈尊であったかのように記述でしているものもありますが、この本の記述とは大きく異なり矛盾しています。

以上の記事は私が以前に書いた記事をもとに、少し修正しました。

下記のアドレスをクリックして、以前の記事もご一読ください。

http://pundarika7.cocolog-nifty.com/blog/2014/10/post-d23b.html

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コメント

大悟の法にも同様の表現がありますね。
「もちろん、仏陀は物理的には歩いていたのでしょう。」 24ページ
「彼は美貌の青年であり、青年期特有の欲情を、それなりに持っていたのだろうと思います。おそらく、それが外に出てきていたのではないでしょうか。」37ページ
アングリマーラは有名な仏弟子だったから、仏陀その人ならよく覚えているはず。なのに、なぜ、「...でしょう。」 とか 「...ないでしょうか。」 という推測のような表現になるのか?と思います。
また、釈迦は、過去の転生の中で、ボサツとして自己を犠牲にし、他者への慈愛を実践して、その結果として今の仏陀になったと、多くの仏典に書かれています。ところが、幸福の科学では釈迦の転生は、いきなりラ・ムーに始まり、トス、リエント・アール・クラウド、オフェアリス、ヘルメス、釈迦、となります。最初から悟った存在という事のようであり、仏典に書かれている内容とは異なっているように思われます。

tra1uwさま、コメントをくださりありがとうございます。
とても参考になりました。このシリーズの後に、いただきましたコメントを記事として紹介させてください。

大川隆法氏が過去には釈尊であったこともあると、大川氏や幸福の科学では説明していますが、それならば、釈尊であったことの記憶が、大川氏が釈尊であったことの一つの証拠になると思います。本人だから知っているという事実こそが証拠になります。
ところが、当時の釈尊について、大川氏は「だと思います」「でしょう」「わかりません」「ではないでしょうか」といった当人を知らない第三者が想像でものを言っています。
大川氏は自身は過去に釈尊でもあったと言っても、所詮は第三者でしかないということを大川氏の語り口が物語っているのです。
たとえるならば、「私が犯人です」と自供しても、犯人であるからこそ知っている事実が無ければ、その自供の信憑性が乏しいと思われるのは当然のことです。それと同じです。

重ねてコメントをくださったことに感謝します。

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