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2016年1月21日 (木)

幸福の科学がいう「仏陀再誕」は理屈が通るか

このブログで前にも全文を転載して、それを検証したことがありますが、幸福の科学の根本的な教義であります、大川隆法氏が釈尊の生まれ変わりどころか、釈尊は大川氏の意識本体なるものの一部に過ぎないという、「仏陀の再誕(再誕の仏陀、仏陀再誕)」をもう一度考えてみたいと思います。
以下に掲載しますのは、幸福の科学系の月刊誌『ザ・リバティ』HPの記事の一部分です。
「仏陀再誕」を否定する小乗仏教(上座部仏教)は間違いである
2014.01.12 
    心の修行こそが釈尊の本意であり、戒律は自らを戒めて修行を完成させるための手段であったはずだ。形骸化した現在の上座部仏教は、釈尊の本来の考えからは離れているようだ。そのことを象徴的に示しているのが「仏陀は決して生まれ変わらない」という考え、「仏陀再誕」を否定する思想だ。まるで仏陀を忌み嫌い、敬遠するかのようなこの考え方は、仏教の解釈として本当に正しいのか。
「仏陀は再誕しない」は極めて不自然な思想  
上座部仏教では、悟りに到達して仏陀となった存在は転生輪廻から解脱し、もはやこの世界には生まれ変わってこないと解釈されている。最近、仏教活動家の佐藤哲朗氏はこの上座部仏教の教えに基づいた『日本「再仏教化」宣言!』という本の中で、「(仏陀は)輪廻の世界から『解脱』を果たした方です。ですので、絶対に『再誕』などしないのです」と述べ、大川隆法・幸福の科学グループ創始者兼総裁を「再誕の仏陀」として信仰する同教団を批判した。そこで、上座部仏教の最大のポイントの一つである「仏陀再誕否定論」を検証してみたい。  
上座部仏教は、成立が古いとされるパーリ語の原始仏典を聖典としている。そして、そのパーリ仏典をひもとくと、確かに、釈尊の教えの基本として、苦しみばかりの転生輪廻から逃れるべきことが説かれている。悟りを得て仏陀となり、迷いの転生輪廻の輪から解脱する(もうこの世には生まれてこない)ことこそが仏教の目的であり、八正道をはじめとする教えはそのための方法だというのである。  
すると、釈尊は悟りを得たのであるから、「仏陀となった釈尊が再びこの世に生まれ変わってくることはない」という解釈が成り立つ。パーリ仏典やそこからの翻訳を含む漢訳の阿含経典の中には、釈尊がもはや生まれ変わらないと自ら宣言している箇所もあるため、一見、この解釈は動かし難いように思える。過去にも多くの仏陀がいたという「過去七仏」や、未来に仏陀が出現するという「未来仏」の思想も、あくまで釈尊とは異なる存在という位置付けだ。  
確かに、「仏陀は迷いの輪廻を脱する」という教えは繰り返し説かれており、それが原始仏典の中心的な教義であることは間違いない。しかしその一方、そこには「仏陀となってしまえば、この世への転生が(たとえ仏陀自身が希望しようとも)不可能となる」とまでは書かれていない。  
原始仏典においても、釈尊は数多くの奇跡を起こし、常人を超えた威神力を示している。その釈尊が「仏陀となった」という理由で、他の衆生でもしている転生輪廻ができなくなるというのは極めて不自然な考え方ではないだろうか。素朴な宗教的感情からしても、やはり「仏陀となったならば、強制的な迷いの転生輪廻からは解放される。しかし、衆生救済のため、自らの意志によって再誕することはありえる」と解釈するのが筋だろう。
(以上、一部分を転載)
まず、
釈尊の本来の考えからは離れているようだ。そのことを象徴的に示しているのが「仏陀は決して生まれ変わらない」という考え、「仏陀再誕」を否定する思想だ。まるで仏陀を忌み嫌い、敬遠するかのようなこの考え方は、仏教の解釈として本当に正しいのか。
というところですが、そもそも仏教徒は仏陀を忌み嫌い敬遠するために「仏陀再誕」なるものを否定しているのではありません。
仏陀の再誕などあり得ないというだけのことです。
それなのに、ここからして、論理をすり替えています。
次に、
確かに、「仏陀は迷いの輪廻を脱する」という教えは繰り返し説かれており、それが原始仏典の中心的な教義であることは間違いない。しかしその一方、そこには「仏陀となってしまえば、この世への転生が(たとえ仏陀自身が希望しようとも)不可能となる」とまでは書かれていない
とありますように、「「仏陀となってしまえば、この世への転生が(たとえ仏陀自身が希望しようとも)不可能となる」とまでは書かれていない」から仏陀の再誕はあり得るという理屈を立てているのです。
つまり仏陀に再誕する可能性や能力がないのかという、これも論理のすり替えです。
その論理のすり替えをしたうえで、「……をしない」を書かれていなければ、「……をするかもしれない」ともいえるのではないかという論理を立てているのです。まるで抜け道を探したような話です。
次に、
原始仏典においても、釈尊は数多くの奇跡を起こし、常人を超えた威神力を示している。その釈尊が「仏陀となった」という理由で、他の衆生でもしている転生輪廻ができなくなるというのは極めて不自然な考え方ではないだろうか。
とありますが、幸福の科学では高橋信次氏が創立したGLAの影響で、輪廻転生を「転生輪廻」と言っていますが、「他の衆生でもしている転生輪廻」とありますが、輪廻転生は「他の衆生」が自らの能力によって、自らが望んでやっているのではありません。輪廻転生をせざるを得ないでいるだけのことです。
ですから、「他の衆生」に出来て仏陀に出来ないはずがないという理屈はおかしいのです。仏陀に輪廻転生をする能力があるとか無いとかではなく、輪廻転生から脱したということで、輪廻転生をしたくてもできなくなった(能力がなくなった)ということを言っているのではありません。
これも幸福の科学側の論理のすり替えです。
ですから、仏教学者や僧侶や仏教徒は、仏陀に「生まれ変わる」「輪廻転生をする」能力がなくなったと誤解しているのではありません。仏陀となっては「生まれ変わる」「輪廻転生をする」ことのない存在になったと考えているのです。また、それは既存の仏教経典によって裏付けられていることなのです。
次に、
素朴な宗教的感情からしても、やはり「仏陀となったならば、強制的な迷いの転生輪廻からは解放される。しかし、衆生救済のため、自らの意志によって再誕することはありえる」と解釈するのが筋だろう。
とありますが、「仏陀がこの時代にも現れてほしい」と願うのは、これは個人的な心情であって、個人的に願うから「衆生救済のため、自らの意志によって再誕することはありえる」と解釈するのが筋だろう。」というのは傲慢でしかありません。
自分自身の感情・心情を投影して、それでもって持論を展開し、正当化するというのでは論理は通りません。
単純に言えば、「私が思うことだからあり得る」「私が思うことだから、それが仏教だ」と言っているだけに過ぎません。
以前、私がこの『ザ・リバティ』の記事の全文を転載して、少し検証をしましたから、お時間の有る方はそちらも覗いてください。
「仏陀再誕」があたかも論理的に「あり得る」ように『ザ・リバティ』の記事では書いていますが、論理のすり替えをしたり、自分(大川氏や記事の筆者)が思うからあり得るという発想で通そうとしたりしているに過ぎません。
そして、今回は取り上げません(転載していません)が、同じ記事の中で、大川隆法氏の著書から引用して、「仏陀再誕」が「あり得る」という論理の組み立てを試みています。
「再誕の仏陀」を自称している大川氏の著書を出して、「大川氏が仏陀再誕があると言うから有るのだ」という理屈では、少しも説得力もないし、論理的にも外れています。
「再誕の仏陀」を自称する大川氏が自分で「仏陀再誕」はある、と言っているだけで、それが何かの根拠や論拠になるはずがありません。
「大川氏が自分を仏陀の再誕だと言っているから、仏陀の再誕はあり得る」というだけのことで、その大川氏の著書を論拠にするなどあり得ない話ではないですか。
すると、もしかしたら「信仰の話をしているのだ」と反論があるかもしれません。
そうです。幸福の科学でしか通用しない話をあたかも既存の仏教学(仏教)のほうが誤解しているかのように書いているだけではないでしょうか。

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コメント

釈迦は、「これが最後の生存である。以後再びこの世に生を受けることはない」とはっきり語っていますから、生まれ変わる意志を持っていなかった、というのが史実かと思います。
自分の意志で再誕することは可能だが、釈迦はそういう意志を持っていなかった。六大神通力を持ち、未来を見通す事が可能な釈迦が、「これが最後の生存だ」と語ったのだから、生まれ変わることは無いと判断される。
と考えるべきでしょう。

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