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2016年5月31日 (火)

なぜ都庁記者クラブの記者たちは「舛添都知事」の悪事に気づかなかったのか その2

(前回につづく)

つまり、100のうち99がクロという可能性もあり得る、ということだ。

一 方、舛添知事を「リコールせよ」との世論に対して、「それは時間不足で困難」という解説が散見される。都知事のリコールに必要な有権者の署名数は5月26 日現在で146万7304筆以上だが、そもそもリコール署名活動は7月下旬の参院選から逆算すれば5月26日以降は地方自治法施行令に基づく禁止期間に入っている。つまり「時限的に無理」なのではなく、リコール活動自体ができない期間に突入してしまったのである。

そのため、自ら辞任しそうにない都知事に業を煮やして「舛添おろし」を望む都民に残された可能性は、「百条委員会」と「不信任決議」のみというわけだ。

その有無を決める東京都議会は6月1日から開かれる。舛添問題で夏場までに自民党の責任追及がなされなければ、知事として操りやすいと考える与党は動かず、 舛添知事は延命。逆に、自民党の責任が厳しく報じられれば、参院選に影響が出るため遅くとも6月中には「舛添切り」をしておかねば本体の政権与党が大きな 痛手を食らう。

したがって、百条委員会設置か知事不信任が出るとしたら6月初旬~中旬にかけて、ということだ。その去就は都知事選で担いだ都議会与党=自民党の肚ひとつということになる。

但し、仮に舛添知事の罪が確定して罰則が科されたとしても、根っこにある問題は解決しない。政治とメディアという巨大権力機構が孕む2つの根深い病態に、何の手当も施されていないからである。

「そういうことだけやっているわけではない」

今回の事件で誰もがまず連想したのは、「また雑誌のスクープか(最近なら「また文春か」)。新聞はナニしているのかね?」であろう。

官公庁や地方の役所には新聞やテレビの記者が常駐している。都庁にも「都政担当記者」が配されている。その本来の目的は「権力の監視」であり、記者クラブがその気になって取材すれば、都政の内部情報は溢れんばかりだ。

都政担当のある新聞記者に「知事の行状には本当に気づかなかったのか、それとも知っていてスルーしてきたのか」ときいてみると、

「ほかの取材が忙しくて気づかなかった」「(先を越されて)正直、悔しい」

との反応。そこで、少し突っ込んできいてみた。

――しかし、気づかなければそれ自体が問題では? 日常的に、積極的には不正追及取材をせず、他の媒体からスキャンダルが出た途端に必死でやる、というのは……。

記者「いや、我々はそういうことだけやっているわけではないので。都政といっても守備範囲が広いわけで」

――記者の仕事は結局、「都民の税金がまともに使われているかどうか」に尽きるのでは?

記者「それだけじゃないでしょう? 小さなことを挙げればキリがないですが」

――市町村も都道府県も国も予算配分こそが最重要課題です。不適切な使い方、不当・違法な使途があれば、小さい大きいが問題ではないのでは?

記者「それはその通りですが、例えば選挙やエネルギー、貿易、軍事などをやっていれば忙しいでしょう?(笑)」

――どれも莫大な税金の行方が問題だからですが。税金の使われ方こそが監視役として最重要だという空気が日常的に薄れているんじゃないですか?

記者「そんなことはないですよ。ただ、もっと構造的な問題がからむので、そう簡単な話ではないわけです」

先に言っておくが、筆者とこの記者氏は喧嘩をしているわけではない。16日の会見後に2度、20日の会見後に電話で一度しか話していないこともあり、基本的な見解の違いを互いが理解するのに手間取っているだけだ。

とはいえ、構造的な問題には必ず金がからんでいる。それが公金であれば莫大な額に広がり得るため、メディアがチェックするのである。新聞社の都政担当がチェックを怠ったり、“日和見”で取材自体を尻込みしていたら、有権者は判断情報が得られず、まともに主権を行使できない。

皮肉な言い方をすれば、今回のように釈明会見を開いたおかげで知事の不正を追及する舞台が用意された、ともいえる。そうでなければ、静かな日常を破ろうとはしない「オトナの空気」が普通だからだ。実際、2回目は1回目、3回目は2回目の会見以上に厳しく問い質す記者が増えていた。

政府ベッタリのトップに抗えず報道が左右されがちなNHKの実態を知らない人は、まだ多い。それでも時には核心を突く報道がある。但し、それはニュースではなくドキュメンタリ―、つまり記録映像作品である。また、広告スポンサーの意向で番組が左右される民放に期待する人は減っているが、深夜枠には外注プロダクションによる低予算ドキュメント映像の労作もある。依然として宅配制度に支えられ、購読料を“談合”しているとも批判されてきた新聞も、全国津々浦々の情報を提供している現実で存在意義を維持し、未だに“権威”を保ち続けている。

馴れ合いが「権力の不正監視」を甘くする

ところが、新聞は「お上の発表」や「馴れ合いの情報提供」などによる記事が大半を占めているのが実態だ。仮に取材対象の機嫌を損ねるような問題であっても、不正の疑義があれば積極的に追及取材を続けなければ存在意義は失われる。

しかし、新聞社は記者室という場所を提供され、権力内部へと丁重に招き入れられた結果、原価無料の仕入れ(情報)を直売り(報道)と迂回商品(各種事業)で儲けられる夢のようなビジネスモデルに浸かり込んでしまい、本来の役目である「監視」を二の次にしてしまったかに見える。

筆者の記憶をさかのぼるだけでも、記者クラブの弊害が問題視されてすでに40年は経過しているが、積み重なる馴れ合いが「軋轢」を撥ね退ける力を削ぎ、タダで情報をくれる相手との摩擦を生むスキャンダル取材は損だと判断され、タンスにしまい込まれてしまったようだ。

それが常態化したために、その種の取材努力も実りにくく、やる気のある記者にとっても徒労となりがちだ。舛添問題をはじめとして、政治や行政のスキャンダル第一報が新聞から出にくくなっているのは、記者クラブを接点とした馴れ合いが、権力の不正を監視して暴くための「軋轢を覚悟した積極的な取材」を内側から蝕み、阻んでいるからである。

多くの記者が、「さぁ、質問攻めだ!」という舞台では力を発揮できても、どこかの誰かが着火しなければ、自ら「取引先のスキャンダル」の扉を開くことに尻込みしがちなのだ。

税金の使途を監視すべき新聞が率先して暴けず、またしても後追いとなった舛添問題は、先々、別の問題も積極的に暴かれそうにないことを暗示している。

2つ目の問題はもう少し巧妙で根深い。会見で中途半端な質疑応答に終始した「宛名なしの領収書」である。釈明会見ではそれが意味する背景に突っ込んだ質問がなかったおかげで、舛添知事は言葉巧みに言い逃れたかに見える。

しかし筆者には、この説明のくだりで舛添知事は墓穴を掘ったとしか思えない。

大袈裟な身振り手振りで舛添知事が釈明した要点を意訳すれば、こういう話だ。

○公費と私費、2つの箱がある。あらかじめ会計責任者には自分のポケットマネーで20万~30万円を渡している。

○領収書を渡して、私費はそのプール金から支払われる。プール金の残額が少なくなれば自分が補填する。

○領収書には宛名がないものもあるため、会計責任者が判断をミスって、私的なものも公的な使途として記載処理することがある。

○自分は彼を責めようとは思わない。今後は誤解を招かぬよう、政治資金に精通した専門家に頼んでチェックをお願いしようと思っている。

驚くべき釈明だ。しかも狡猾に過ぎる。舛添氏は、国会議員・厚労相を経て新党を立ち上げ、現在の東京都知事に就いた政治の専門家なのだ。その専門家が、「自分の私費を公費として処理したのは会計責任者の判断ミス」「領収書の公私判断は今後、政治資金の専門家に委ねる」と言っているのである。

他者に無言で“実行犯”強いるシステム

領収書の使途が私費か公費かは、使った本人が一番よく分かっているはずだ。支払い代行が同行の秘書であれば、それを私費とする旨を秘書に命じればすむことであり、領収書に宛名の記載を求めれば、店は必ず手書きの領収書をその場で発行する。会計責任者は領収書で使途の公私を判別するのだから、宛名入りの領収書を渡せば公私振り分けの判別も容易であり、さらに言えば、判断責任の所在を曖昧にする「プール金システム」などはやめて、会計に回す領収書は公費のみとすればよい。

しかし実は、この「曖昧な判断責任」が問題なのである。舛添氏の政治団体「グローバルネットワーク研究会」「泰山会の政治資金」「新党改革比例区第4支部の政治資金」の各々の収支報告書には、いずれの会計責任者にも「野口英伍」という氏名が記載されている。組織の権力者が持ち帰った領収書に宛名が記されていなければ、それを渡された会計係は何かを暗示されたように感じがちだ。

「暗示」とは、物事を明確には示さず、手がかりを与えてそれとなく知らせることである。舛添知事が野口氏に渡した宛名なしの領収書には、「私費であっても極力、上手に公費として処理せよ」との含みがあったことは想像に難くない。舛添問題でこれが危ういのは、公職者による税金の使い込み=公金横領に直結するからである。

この「暗示含みで他者に“実行犯”となることを無言で強いるシステム」は、世の中に蔓延している。舛添問題だけでなく、永田町でも昔からの常套手段だ。今回のように収支報告書等の記載事実を「動かぬ証拠」として突き付けられても、「自分は知らなかった」「担当者のミス」「事務所の不手際」と言い張れるのは、実際に使途の公私を振り分け(判断)して記載処理(実行)したのが自分ではないからである。

政治家に限らず、老獪な上司は手下に責任を転嫁するために、不都合な決定の場面をあらかじめ曖昧にしておく術を心得ている。会計責任者はその“実行犯”となりがちだ。その能力に不都合や不備・不足を感じて、権力者が「今後は政治資金に詳しい専門家に判断を委ねる」と言ったとすれば、それは「私費を公費に化けさせる専門家を雇って、今後は証拠を残さぬようにする」と公言しているようなものだ。これでは、税金の無駄遣いをするための人材を雇って、さらなる税金の無駄遣いを生むことになりかねない。

だが、こうした巧妙で狡猾な責任転嫁は、部下に暗示する“確信犯”としての権力者に対する断罪だけで減らすことは難しい。なぜなら、前述の記者クラブに見られるような「軋轢の回避」が、組織の上下関係にも蔓延しているため、暗示された側がいつも腰砕けで、唯々諾々と暗示に従いがちだからである。

その結果、いつのまにか「そういう対応こそが自分の職責」と思い込まされてしまう。少なくとも何らかの専門職には、自らの職責に反する命令に対しては、それが明示か暗示かを問わず、己の職責確認を命令者に対して問う、という形での反論・主張の仕方がある。法に則った適切な会計も、権力監視を全うする報道も、求められているのはプロとしての毅然とした態度である。

「何事もオトナの対応が必要」などと言っていたら、世の中は公金横領や贈収賄だらけになってしまう。

(以上、プレジデントオンラインの藤野光太郎氏の記事より転載 了)

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