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2016年6月20日 (月)

幸福の科学での植福(献金、布施)を考える その1

幸福の科学は、自らを仏教教団だと標榜しています。

そこで、幸福の科学での「植福」と呼ばれる献金が、仏教で説く「布施」にあたるのかどうかを考えます。

まず仏教で説く「布施」とは「応分の施」です。

「応分の施」とは、各人の収入や生活状況などに見合う布施です。

例えば、収入が少ないのに多額の布施をしたり、病人などが家族にいて出費がかさむのに無理な布施をしたりと、こういう布施は良いものとしません。

布施する人や家族の生活や職業に影響のあってはならないということです。

また、現代の社会にあてはめれば、企業を経営していて、その経営者が多額の「布施」をしたために、企業の経営に支障が出る、これも「布施」の精神から外れるでしょう。

なぜならば、企業の経営に支障が出れば、経営者の家族だけでなく、従業員やその家族、取引先などにも悪い影響があるからです。結果的にも、布施が人々の苦しみをつくることになるからです。

つまり布施によって生活や職業に支障が出るのは、布施の精神に反しているといえましょう。

そして、布施は「喜捨」とも言われるように、布施して驕りや惜しみの気持ちが出るようであってはなりません。対価を求めるものとも違います。

私の知る限り、この「応分の施」を幸福の科学では信者に教えていないと思います。

幸福の科学の説明では「植福」は世界伝道に役立てられているとか、人類幸福化に役立てられる、といいます。

「植福」がいかに大切なことであるかは説明しても、「植福」によって信者やその家族の生活や、信者が経営者であれば経営を困らせるものであってはならないということを説いていないということです。

「植福」を仏教での「布施」と重ねるならば、「布施」にあるべき精神が保たれているのかが重要になります。

以前、大川隆法氏が文藝春秋のロングインタビューで、信者の出費について、「一人あたり年間にして平均100万円」といったことを言っていました。

その大川氏の言葉がどこまで事実かは別にして、確かに信者一人あたりの献金額、支出は相当大きいでしょう。

そうでなければ、各地に精舎や支部と言われる建物は作れませんし、栃木県と滋賀県に中学・高校をつくれませんし、千葉県長生郡長生村に設立不認可になったものの大学をつくることもできませんし(現在、(学校教育法をもとにしない)無認可の信者向けの教育施設であるハッピー・サイエンス・ユニバーシティを経営)、それら建物を機能させ維持する相当の費用をまかなうことができません。また幸福実現党という政治団体もつくれませんし、多くの職員を抱えることもできません。

それを支える信者の方は、献本のために複数部の本を買い、祈願のために献金し、植福と言われる献金をし、そのほかにも出費をしています。

信者がかなりの出費をしなければ、教団を維持できないほどの状態になりました。

つまりは、どれだけ信者からお金を集めるかが職員の役割になり、それが実績や評価になり、教団の最大の関心事になっていることが想像できます。

(つづく)

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