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2016年6月17日 (金)

幸福の科学・大川隆法氏の霊言なるものは批判されて当然かを考える その2

(前回の「幸福の科学・大川隆法氏の霊言なるものは批判されて当然かを考える その1)」の記事につづく)
それに対して、幸福の科学は「霊言」なるものを批判されると「神聖な宗教行為への冒瀆」「信教の自由の侵害」という、だいたいこの2つのパターンの言葉を使って反論します。
しかし、「霊言」なるものを存命の人物や故人の「本音」だと言って、それを収録したものを信者に見せ、一般書店にも書籍化させて並べる、そういう特定の故人・個人を一方的に裁くようなことをして、それが「神聖な宗教行為」「信教の自由」なのでしょうか。
「神聖な宗教行為」だと言えば、何をして、何を言っても許されるものなのでしょうか。
「信教の自由」だと言えば、何をして、何を言っても許されるものなのでしょうか。
たとえば、強引に宗教団体に勧誘すること、周辺に大きな音をだすこと、強引に献金を求めること、教団への献金のためといって不当な額で物を売ること、こうしたことが「神聖な宗教行為」「信教の自由」と言えば許されるものになるのかということです。
あるいは、誰だって他人に知られたくない「内心」というものがあるのは当然です。
もし大川氏のやっている「霊言」なるものが、本当にその個人・故人の「内心」(本音)であるとしたら、それは他人には知られたくない「内心」の暴露を許可なく(勝手に)やり、それを書籍化までして、世間の人の眼にさらすことをやっているのです。
それこそプライバシーの侵害であり、憲法で保障されている「良心の自由」「思想・信条の自由」という個人の「内心」を冒すことになりはしませんか。
当然、各人の信仰の尊厳性や信教の自由、宗教の尊厳性は尊重されるべきものです。
しかし、宗教団体のやることのすべてが「神聖な宗教行為」「信教の自由」であるのかとなれば、そのようなものではありません。
いくら本人が自分のやっていることは宗教行為だと思っていても、それが「神聖な宗教行為」「信教の自由」として認められることではないということです。
(つづく)

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幸福の科学」カテゴリの記事

コメント

こんにちは、幸福の科学のサンポールブログで、たまにコメントしております pn あはです。
あなたのブログに共感できます。
神のためなら、霊界の証明のためなら、人類救済のためなら、魂の救済のためなら、、、、こういう大義名分を利用している宗教組織は幸福の科学だけではありません。
本物の神は、こういう連中に対して、お嘆きだと思います。
また、きます。
とりあえず、ご挨拶コメントでした。

pnあはさま

コメントをくださりありがとうございました。

幸福の科学の職員の方はかなりの高学歴の方が多いと聞いていますが、批判に対して大川氏や幸福の科学を弁護するとなると、このブログで何度か取り上げていますが、「なんでそんな理屈をだすのですか」「それでは論理矛盾を起こすはず」「なんで自分で言っていることが論理の破綻だと気づかないのだろう」と思うことが多いです。

まずは御礼を申し上げます。

こんばんは、
疑問に思われる事について、駄文ながらコメントさせていただきます。

>「なんでそんな理屈をだすのですか」「それでは論理矛盾を起こすはず」「なんで自分で言っていることが論理の破綻だと気づかないのだろう」と思うことが多いです。

これは、どこの宗教でも同じですが、信者の9割以上は理性・理論・理屈でものを
考えず、感情や感性で生きている女性が多い事、
それと、現場の支部・精舎では疑問に思った事を口に出せる雰囲気ではありません。
もし、疑問を口に出せば、ヒステリックに

「あなた信者ですよね??」
「なによ、その態度は!大川総裁に逆らうつもり?」
「主(教祖)には深い考えがあってのことですよ」

とわめかれ、ものすごい形相でにらまれます。
全体主義、一神教の恐ろしいところです。

私は隠れ信者(会員)ですが、こういう理不尽な仕打ちを
信者から何度も受けているうちに、大川教祖に対する
尊崇の念も信仰心も徐々に消えていきました。

サンポールさんにもコメントしたのですが、信仰と教団運営(教団組織)
また、末端の信者と教団の中の人(教団から給料をもらっている人)
に分けて考える方が、理解しやすいことも多いです。

長文になりますので、この辺にて・・・。

あは様

コメントをくださりありがとうございました。

幸福の科学が仏教を標榜していますが、私の知る限り「応分の施」を説いていないと思います。

「応分の施」とは、その人の収入や家庭環境などに似合う布施です。

布施は多ければいいとか、多く布施をした人が讃えられるものではありません。

その人に見合う施でよく、「貧者の一灯」と言われるように、布施の多少ではなく布施にある心を大切にします。

まして、自分の家庭や生活、職業を蔑ろにするようなのが布施ではありません。

布施は喜捨とも言われ、自分がこれだけ布施したという誇り、驕りがあっても、惜しみがあっても、対価を求めるものでもありません。

一方、幸福の科学では多額の布施や献本をすると菩薩と称される、こんなのが仏教の説く布施ではありません。

このことも今度ブログに書きたいと思います。

あは様、コメントをくださりありがとうございました。

こんばんは、貴殿の仰る通りです。
そのまま、そっくりそのまま、貴殿のコメントの内容が指摘され、問題視されています。
お布施返還訴訟も起きております。

下記URL、もし宜しければ、記事の参考にしてくださいませ。

http://m.chiebukuro.yahoo.co.jp/detail/q1239917862

http://tanemura1956.blogspot.jp/?m=1

http://dailycult.blogspot.jp/2015/07/blog-post_26.html?m=1

あは様

コメントをくださりありがとうございました。

あは様の言われるように、布施の返還訴訟を起こされた件は以前目にしました。

幸福の科学は、他者を非難するとき、よく、唯物的、この世的という言葉を使いますね。

でも献金が多額だと菩薩だの大黒天だのと褒められるなんて、それこそ唯物的、この世的ではありませんか。

本日、また記事を更新しました。

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