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2016年6月19日 (日)

幸福の科学・大川隆法氏の霊言なるものは批判されて当然かを考える その3

(前回の記事「大川隆法氏の霊言なるものは批判されて当然かを考える その2」
に続きます)
幸福の科学の反論は、霊言は宗教行為だと疑いもなくやっていることだから「神聖な宗教行為」であり「信教の自由」として認められるのは当然だという理屈です。
しかしこの理屈は通用しません。
幸福の科学だけでありませんが、宗教批判は宗教への無理解から生じるものとは限りません。宗教者・信仰者の良識も問われるべきことです。
いくら幸福の科学が「霊言は神聖な宗教行為」だと力説しても、それによって、個人、故人が冒瀆され、尊厳を傷つけられるならば、それは許されることではありません。
また、幸福の科学が主張するように、「霊言」なるものがその個人・故人の「本音」だとして、それを許可なく(勝手に)信者にだけでなく書籍化して世間一般にまで暴露することが「信教の自由」の範囲にあるのでしょうか。
「霊言」(本音)なるものを発表される当の本人からしたら、その「霊言」なるものが本当にその個人の「本音」であれば、それを勝手に暴露されるのですから、「プライバシーの侵害」であり、「良心の自由」「思想・信条の自由」という内心の自由を冒されることになるでしょう。
幸福の科学が主張するように「霊言」なるものが本当に当人の「本音」であるならば、プライバシーの侵害、良心の自由や思想・信条の自由の侵害を宗教行為としてやっていることになります。
「信教の自由」とは、個人、故人が冒瀆され、尊厳を傷つけても、宗教行為だから自由であるということでもありません。
たとえば、法的にも宗教者や弁護士、医師、公務員などその立場で知り得た個人情報を第三者に知らせることは許されません。
たとえば、医師が患者の病状(症状)などを医療行為によって知り得た情報を許可なく第三者に伝えることは「医療行為」とは言えず、それは禁止(違法)とされています。
一方で、大川氏は「霊言」なる「宗教行為」(幸福の科学の言い分では「神聖な宗教行為」)で知り得た個人・故人の「内心」という情報を書籍化させてまで世間一般に伝えることが許されるのでしょうか。
幸福の科学の理屈で言ったら、プライバシーの保護権(保持権)や、良心の自由、思想・信条の自由といったものよりも、信教の自由のほうが優先されるべきで、仮に、個人・故人が霊言によって不利益を被り、不快な思いをしても、それは霊言という宗教行為に生じたものであるから「信教の自由」によって、幸福の科学・大川氏・霊言は許されるべきものだというのでしょう。
ただ、そんな理屈がまかり通るならば、先ほどの例のように、医師が患者の病状などを第三者に伝えることや、弁護士が依頼人の情報を第三者に伝えることや、教員が生徒の成績を第三者に伝えることが許されることになります。
その理屈がまかり通るならば、神のためにと多くの一般市民を犠牲にするテロリズムさえ「神聖な宗教行為」「信教の自由」になるのかというおそれもあります。
「神のため」と本人が信じてやったことだからテロリズムも宗教行為であり、それも信教の自由のうちに入るのかということです。
もちろん幸福の科学は、それは論理の飛躍だの曲解だのと言うでしょう。
しかし、他者を殺傷するという行為ではないものの、霊言なるもので他者が精神的・社会的に傷つけても、それを宗教行為であるとして弁護する点では共通性があるのです。
と考えると、大川隆法氏のやっている「霊言」なるものが批判されても当然でありましょう。
幸福の科学側の大川氏のやっていること(信者が信じていること)は正しいとして、批判されると「神聖な宗教行為への冒瀆」とし、憲法で保障される「信教の自由」を盾にして、自らの一方的な価値観を押し付けて正当化をはかっているだけではありませんか。

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幸福の科学」カテゴリの記事

コメント

その1
>幸福の科学の説明では、この「霊言」なるものは、その人物の「本音」だそうです。

「霊言」の本質はワイドショーなんかでよおある、「関係者の証言」と一緒だす。
顔は映さず声を変えて、
「ええ、○○さんは確かにこんな事を言っていました」とかやっとるアレと一緒ですわ。
当たれば大宣伝。外れたら知らんぷり。
宗教儀式の隠れ蓑でゴマ化しとるダケで、ヒジョーに卑劣な行為だす!


その2
>「神聖な宗教行為への冒瀆」「信教の自由の侵害」と・・・(中略)・・・反論します。

イスイス団もこれと同じ論理展開をしとりまんな?
コーフクはイスイス団に対してナンとゆうんでっしゃろ?
まあオーカワはこの霊言でムハンマドを呼び出して、
「イスイス団が起こっても当然だ!」みたいなコトをゆわしとるんでんが・・・。
(流し読みしかしとりまへんので、内容はよおワカリマヘン)。
http://amzn.to/28L8Izq


その3
>たとえば、法的にも宗教者や弁護士、医師、公務員などその立場で知り得た個人情報を第三者に知らせることは許されません。

さいでんなあ。
「神聖な霊言」とかゆうとるワリには肝心の霊言がちっとも当たらんのだす。
プンダリーカはんはお医者はんにたとえとりまんが、
わての視点でゆうたら「誤診ばっか繰り返し、何十人もの患者を死なしとる医者」だす。
わてが「アンタ、ヤブ医者やろ! 責任とらんかい!」て指摘すると、
「医師免許も持たん素人が専門家に聞いたよおな口聞くなー!」
テ逆切れしとるんがオーカワやテ思いまっせ!


以上、わての感想だす。
管理人はんのご意見には100%賛成ですわ!

エル・バカターレさま

コメントをくださりありがとうございました。

いずれ書くつもりですが、霊言なるものは、神を名乗る大川氏にとって致命傷でしかありません。

理由は簡単です。

神を名乗るくせに、人に教えを乞い、それを発表することを宗教活動にしているからです。

医師が患者に病名を教えてもらい、処置の仕方を教えてもらい、手術が必要ならばその仕方を教えてもらい、薬はなにがいいかも教えてもらい、薬の使い方も教えてもらい、とこんな有り得ないことを大川氏はやっているのです。

それで、こんなことを患者さんから教えてもらいましたって本に出す。

大川氏のやっていることは、これと一緒です。

つまりは大川氏は自分の役割でやっていけないことをやって、それが卓越した能力だと自慢している、滑稽でしかありません。

コメントをくださりありがとうございました。

こんにちは
時折記事を読ませていただいています。
幸福の科学ですが、宗教としてはなんとなく論じるのが間が抜けていると思ってしまいます。そもそも霊言ですがあんなのをまき散らせばまき散らすほど周りは引くと思うんですよね。もしくはネタとして面白がるというか。なんであんなのを真剣に聞くのかほんとわからない。幸福の科学以外にも色んな宗教が存在するわけですが群を抜いて「バカバカしくい」「真剣に取り合うのがムダ」な気がします。なんというか感性が違いすぎる。でもそういうのを信仰する人もいるから啓蒙活動が必要なのかなともこのごろ思うようになってきました。
植福の記事も興味深かったです。
信じるということは自分をまさしく信仰相手に捧げてしまうのですね。なぜそこまで盲目的になれるのか、退会した後教団に文句をいっている人をみては信じたのは自分でしょ、自己責任ではないかと冷ややかな眼差しを向けていてそれは今でも変わらないのですが自分でもきっと心のコントロールができなくなっていくところもあるのかな。マヒしてしまうのかな。でもなぜ信じてしまえるのか。色んな宗教をのぞいたことがありますが、深く学んでみたいとおもったことが一度もないのは幸運なのかもしれない。でも長年のお布施で赤貧の夫婦の下りがありましたがそれでもきっと彼らは幸せなのでしょう。ブログ村を見ていてもわたしたちの=幸せの形と違っても幸せな信者さん多いですもんね。

nyakko様

コメントをくださりありがとうございました。

また、時々このブログの記事をお読みくださりありがとうございます。

私もこれまでいろいろな宗教を訪ね、多くの宗教者の方からお話を伺いました。

多くの宗教があるなか、幸福の科学は特異な存在だと思います。

もともと宗教から始まったわけでないのに宗教としたことからして、「軌道修正」「方向転換」をしていくたびに無理が生じて、増改築の繰り返しをして「迷路」のような建物になったようなものではありませんか。

私、このブログで書いたことがありますが、増改築を繰り返したホテルに宿泊したのです。ロビーから部屋にたどり着くまでも迷路。部屋から大風呂に行くのも迷路。大風呂から部屋に戻るのも大変でした。

そんなもので、結局は計画のないままに気ままにというのか、その場その場で繕ってきた、それが幸福の科学ではないですか。

私は教義の面をよくこのブログで取り上げますが、幸福の科学の教義なるものは複雑怪奇というのか、それは難解という意味ではありません。場当たり的で、結局は、まとまりもない、系統だっていないことで次々と矛盾を起こし、それをまた場当たり的に繕って、そんなことでつくったのが教義ではないですか。

よく「パッチワーク」(継ぎ接ぎ)と言われるくらいです。

ですから、大川氏自ら著書で書いていますが、経済学者や経営者の学説や思想を幸福の科学の教義に導入しました、と。

神や仏の教えでなく、人の学説や思想を宗教の教義にしたなんてありえない、そんなこととんでもないから言えないはずなのに、抜け抜けと大川氏は言っているのです。

大川氏は、当初は宗教に興味がなかったのでしょう。ですから宗教について学ぶこともなく、それなのに、トーメンという総合商社に入社した後、霊に興味をもって、何か霊と交信できる能力が身についたでも思ったのか、親子で霊言なるものを、本を出版し、寄って来た人の前で霊言なるものを披露して、ますます自信をもったのでしょう。

コメントくださりありがとうございました。

これからもこのブログをお読みいただけたら嬉しいです。ありがとうございました。

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